ネマニャ・ラドロヴィチというヴァイオリニストの演奏を聴きながら仕事をしていた。
1985年、ベオグラードに生まれた彼は、コソヴォ内戦の戦火の中育った。
頭はアフロみたいな髪型で、痩身に髭面。はっきりって怪しい。ジプシーそのものだ。
演奏は、クラシックの常識にとらわれず、ときには楽譜や作曲家の意図もなんのその。憑りつかれたダンサーのように、髪を振り乱して、弦がすべて切れるかのような激しい演奏である。音程や合奏が乱れることなどあまり大事でないことのように思える。
彼の演奏を「超絶技巧」と評しているものがみられるが、まったく本質をつかんでいない。彼の音楽を聴くと、深読みや、文脈は意味を喪失する。そんなことをするより、そこにあるものに委ねようという気になる。忘れていた「自由に聴くこと」がじわじわと思い出されてくる。
あんな暑苦しい情熱的な演奏なのに、気持ちが楽になる、解放感に満たされる。
ああ、自分はこんなに音楽とにらめっこして、細部に目をこらし、そこに何があるかを感得するために、かなり力んでいた。勝手に自分の物語の中に音楽を引き入れていた。
そう、それも一つのとても豊かな聞き方なのだが、そうじゃない聞き方、自由な聞き方に細胞が沸き立ち、そして、一気に弛緩する。脳内に生暖かい風が吹き、しかしまどろむのではなく、覚醒する。
我々は、政党や政治家に、多くを、望む。文句も言う。
一時の熱狂があっても、少しでも想定と違うとガッカリしたりする。愛される人ほど、皆がその人と自分の物語を語りたがる。自分の文脈でしか判断できないのもまた事実だが、もう少し緩く、自由に、相手を見てみてもいいのではないか。勝手にその人にいろいろなものを読み込まなくてもいいのではないか。そうしなければ、政治家も国民も育っていかない。
読み込んでもいい、読み込んでもいいから、その読み込みが「誤読」であったときに、相手にも自分にも寛容になるべきだ。なんだ、それもあったか、と。これぞ、本当の「他者」との出会いである。
ネマニャは自分のことを「ヴァイオリニスト」ではなく「ミュージシャン」と呼ぶ。彼は「ヴァイオリン」という手段ではなく、コミットしている「音楽」に価値をおいている。
そして、最近よく共演しているとてもエキサイティングな仲間とのことを子供のような屈託のない顔で語る。彼は、善き仲間と善き音楽をやっている自分から出発している、そして、その終着点であるミュージシャンという立場を支えている。
さらにいえば、インタビューの中で、彼は「音楽をやらなくなったら何をしようかな」ということをいつも考えている、と笑顔で語っている。美容師にあこがれていて、ガールフレンドの髪を切ったら二度と触らせてくれなかったなどというお茶目なエピソードも披露している。
戦火を生き、生きながら音楽とのコミットメントに喜びを爆発させる「自由」なミュージシャン、ネマニャ。
彼が美容師になっても、私は彼の音楽がくれた「奏で手の自由」と、「聴き手の自由」と表裏の「聴き手の節度」を胸に、彼の音楽を思い出したい。
さあ、投票に行こう、そして、もっと自由な発想と節度をもって、日本の未来を語ろう。